卓球の歴史年表まとめ【ラケット・日本・ルール】

卓球の歴史をざっとまとめてみました。「卓球の発祥から現代までをまとめた歴史年表」や「ラケットの歴史」「ルール改正の歴史」をそれぞれまとめています。

また、日本卓球界の歴史についてもまとめています。日本は卓球の歴史に深く関わっていました

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卓球の歴史年表

年表【発祥から現代まで】

■13世紀
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フランスの貴族の間で「ジュ・ド・ポーム(手のひらのゲーム)」が生まれる

■19世紀後半
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イギリスの上流階級の間で、テーブルで行うミニテニスが人気になる

■1900年代
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ゴム製のラバーが登場

■1937年
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指で強い回転をかけるフィンガースピンサービスが開発される

■1940年代~1950年代
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欧州選手のカット主戦型が全盛を迎える

■1950年代
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日本が裏ラバーを開発する
ラバーの種類が劇的に増える

■1988年
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オリンピックの競技に加わる

 

卓球の起源はフランスの貴族の遊び

卓球の起源は13世紀のフランスにあります。フランス貴族の遊びとして、卓球が始まったといわれています。現在のテーブルで打ち合う卓球とは違い、「ジュ・ド・ポーム(手のひらのゲーム)」として遊ばれていたそうです。

スポーツというよりも、遊びの一つという感じですね。詳しくは分かりませんが、日本でいうお手玉的な遊びでしょうか。

 

19世紀後半のイギリスで発展

テーブルの上でボールを打ち合うという現在の卓球の形に近づくのは、19世紀後半のイギリス。テニスが盛んに行われていたイギリスでしたが、気候の問題でにわか雨が降る日が多かったようです。

まとまった雨が降る日は、数時間雨が降りやまないこともあったようです。雨の中ではテニスをすることはできません。

雨が上がるまでの暇つぶしの中で生まれたのが、テニスボールを葉巻の箱のフタで打ち合うという室内で行うミニテニス。これが後に卓球へとつながっていきます。卓球の発展には、テニスが大きく関係していたんですね。

二つのスポーツは密接に関係していました。卓球を英語にすると、テーブルテニス(Table Tennis)と書きますしね。

 

ラケットはバドミントン的。ボールはコルク。

卓球が始まった最初のころのラケットは、バドミントンのように柄の長いラケットを使用していたようです。当時はまだラバーなど存在せず、革や紙やすりを貼っていたようです。そして、打ち合うボールはコルク。

ゴム製のラバーをラケットに貼り、プラスチックのボールを用いる現代卓球からは大きく異なりますね。ラケットは、その後徐々に進化していき、現在の形に変わっていきます。

ラケットの進化の歴史に関しては、記事下で別途詳しくまとめています。

 

ラリーが長すぎる問題

ラケットは徐々に短くなっていき、1900年代頃にはゴム製のラバーが登場します(スポンジのない現在の1枚ラバーのような形)。現代卓球に近づきだしますが、当時のラケットとラバーでは強いボールは打てなかったといいます。

一撃で打ち抜くようなスピードのあるボールを打つのは難しく、守りに徹した方が有利な傾向にあったようです。そのため、1ポイントとるためのラリーは長時間化しました。このような守備有利の状況は長く続くことになります。

1936年の第10回世界卓球選手権では、1ポイントとるのに2時間以上もかかったという記録が残っています。ちょっと驚きですよね。1ポイントに2時間もかかるなんて、今では考えられません。

 

1937年に強い回転をかけた卓球が登場

2時間のラリーが行われた翌年、1937年に開催された第11回世界卓球選手権。そこで卓球のプレースタイルの歴史を大きく前進させる出来事が起こります。初めて強い回転をかけたプレイが行われるんです。

指を使うことによって、ボールに回転を生み出す「フィンガースピンサービス」が開発され、大会で実用化されます。アメリカの男子チームは、フォンが‐スピンサービスを使って好成績を残します。

相手選手は回転サーブを初めて体験する選手ばかり。レシーブミスが続出する事態となりました。

一方ではラリーの長時間化、一方ではサーブで決まる短時間化。両極端なプレーが横行しました。そのため、観客は退屈だと感じる試合が増えていったようです。

 

カットマンの流行

両極端なプレーによる観客離れを深刻視した国際卓球連盟は、大きなルール改正を行います。※ルール改正の歴史についても、記事下で別途まとめています

ルール改正
  • ネットの高さの引き下げ
  • 試合時間の制限
  • フィンガースピンサービスの禁止

プレースタイルに大きな影響を与えたのは、「フィンガースピンサービスの禁止」。このルール改正により、再び守備有利な状況が加速することになりました。

1940年代から1950年代初頭までは、欧州選手のカット主戦型が全盛を迎えます。

 

日本が卓球の歴史を動かす

カットマン全盛を変えたのは、日本でした。1950年代になると、日本は次々と革新的な卓球用品を開発することになります。その中でも大きく歴史を動かしたのは、裏ラバーの開発。

従来のラバーを裏返して使う「裏ラバー」。裏ラバーを使うことにより、ボールとラバーの接着面が飛躍的に大きくなり、指を使わずに強い回転を生み出すことに成功します。

より簡単に、より強力な回転を生み出すことができる裏ラバー。その存在は、卓球の歴史を大きく前進させます。まさに、「その時、歴史が動いた」瞬間でした。

裏ラバーを皮切りに、様々な種類のラバーが開発されることになります。

 

ラバーの種類が飛躍的に増える

日本が裏ラバーを開発した後、ラバーの種類は飛躍的に増えることになります。現代卓球でも使われるラバーもこの時期にほぼ出そろうことになります。

まずは、ラバーの代わりにスポンジをラケットに貼る手法。従来のラバーと比べて、反発力が飛躍的に向上しました。次に、ラバーとスポンジを組み合わせた「スポンジラバー」の開発。

さらに、スポンジと裏ラバーを組み合わせた「裏ソフトラバー」の開発。一枚ラバー(表ラバー)と組み合わせた「表ソフトラバー」。さらにさらに、表ソフトを発展させた「ツブ高ラバー」も開発。

日本は次々と卓球の歴史を変えていきました。そして訪れるのが、日本の黄金時代。1950年代に日本は世界選手権の多くの種目で優勝者を輩出することになります。日本卓球の歴史に関しては、別途まとめています。

この時点で、卓球の歴史はほぼ現代卓球に近づきます。

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ラケットの歴史

葉巻の箱のフタから始まる

19世紀後半のイギリスで暇つぶし用の遊びとして始まった卓球。最初のラケットは、葉巻の箱のフタを使っていたようです。ボールはシャンパンやワインのコルクを丸く削ったものを使用。

葉巻のフタに、ワインのコルク。なんだか子供の遊びっぽいですよね。それ用の用品ではなく、日用品を改良してラケットやボールにしています。

スポーツの歴史なんて、どれもこんなものなのかもしれませんね。

 

木製ラケットに進化

イギリスの上流階級の間で徐々に流行しだした卓球。人気が高まるにつれて、用具も進化していきます。

葉巻のフタだったラケットは、木製のラケットになります。ラケットは、木を加工して羊の皮を貼ったバンジョーラケットに進化。ボールは、コルクからセルロイド製(歴史上最初のプラスチックと言われる合成樹脂)に進化します。

この時期に、卓球は暇つぶしの遊びから、独立した遊びへと進化したといえますね。

ちなみに、バンジョーラケットでボールを打つと「ピン、ポン」と音がなったことから、ピンポン(Ping Pong)と呼ばれるようになります。ピンポンの語源はラケットから来ていたんですね。

 

木製ラケットの改良

木で作られたバンジョーラケットは、徐々にその姿を変えていきます。まず、ラケットの空洞が消えます。

空洞が消えて重くなる

木ベラのような形のブレードに皮を貼り付けた木製ラケットが登場。中の空洞がなくなったため、重量が増えました。バンジョーラケットは60g~70gだったのに対し、木べらのラケットは120g前後。今のラケットと比べてもかなり重たいですね。(現在のラケットは80gあたり。ラバーを貼り付けた状態なら180gあたり)

軽量化される木製ラケット

木べらのようなラケットが重すぎたのか、軽量化されたラケットも登場します。ブレードの打球面に複数の穴が空けられたラケットが作られます。穴を空けた分だけ、軽量化。重量は100g前後だったそうです。

金属のラケットも登場

歴史のどのあたりで作られたラケットなのかは不明ですが、アルミ製のラケットも登場します。打球面はデコボコしているアルミのラケット。重量は140g前後。

打球面がデコボコの状態で、どういう風に打ってたんでしょうか。

柄が短くなる

バンジョーラケットをはじめとした、卓球歴史の黎明期のラケットはどれも柄がかなり長いものでした。今見ると卓球のラケットというよりは、テニスラケットに近い感じ。テニスから発展したことを考えると自然な流れに感じますね。

卓球のラケットは徐々に柄が短くなっていき、現在の柄の短いラケットへと変わっていきます。卓球のラリーが速くなるにつれて、ラケットは小さくなっていったのかもしれませんね。

 

ペンホルダー全盛期

1980年代頃までは、日本をはじめ、アジア選手の大半がペンホルダーでした。卓球世界選手権のトップランカーもペンホルダーを使う選手が多かったようです。

1952年に世界選手権の男子シングルスの金メダルを獲得した佐藤博治選手もペンホルダー。1969年の世界選手権で金メダルを獲得した伊藤繁雄選手もペンホルダーでした。

日本卓球の黄金時代を支えた選手の多くは、ペンホルダーを使っていました。ペンホルダー減少しだしたのは、90年代以降になってから。

 

シェークハンド全盛期←今ココ

1990年代以降は、シェークハンド全盛へと変化していきます。

シェークハンド全盛の歴史の分岐点を作ったのは、1989年、1991年、1993年の世界卓球選手権で金メダルを獲得したヨルゲン・パーソン選手(スウェーデン)や、同じくスウェーデンの卓球選手・ヤン=オベ・ワルドナーなど。

シェークハンドのラケットを用いた選手が世界を舞台で躍進を続けました。その結果、ペンホルダー全盛であった日本をはじめとしたアジア諸国にも影響を与えました。

ペンホルダーの人口は、90年代初頭から現在に至るまで減少傾向にあります。

元卓球部の一言
38mmから40mmにボールが変更されたこともあり、ラリーがより重要視されるようになった現代の卓球。フォアとバックのどちらも必要とされるようになりました。その結果、バックが苦手なペンホルダーはさらに減っていくことになります。

裏面にもラバーを貼る反転式や中国式ペンホルダーも開発されましたが、シェークハンドの勢いには押されているのが現状です。今となっては、日本式ペンホルダーはあまりみかけなくなりました。

日本の黄金時代を支えた日ペンが消えていくのは、ちょっと寂しい気もしますね。ただ、これも歴史の流れなのでしょう。

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歴史とルール改正年表

■1937年?
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・指に当ててボールに強烈な回転をかけるフィンガースピンサービスが禁止。禁止された詳細な年月までは不明。

・ネットの高さを引き下げる

・試合時間に制限を設ける

■1959年
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・スポンジのみの使用を禁止。このルール改正によりスポンジラバーが公式試合から消滅する。

■1983年‐1985年
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同色ラバー禁止。

■1987年
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サービスのトスの高さが16cm以上となる。

■2000年
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・ボールの直径が38mmから40mmに変更される。

■2001年
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・21点制から11点制へと変更。

・サービスは5本交代から、2本交代へと変更。

■2002年
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・サービス時にボールを身体や衣服で隠すサービス(ボディハイドサービス・ハンドハイドサービスが禁止。

■2007年9月
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・日本国内の主要大会において、有機溶剤性接着剤の使用が禁止される。

■2008年9月
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・有機溶剤性接着剤の使用が全面的に禁止。

■2008年10月
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・補助剤を用いた後加工が禁止される。

・アンチ加工された粒高ラバーの使用も禁止。

■2015年
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・主要な国際大会で、セルロイドボールからプラスチックボールが使用される。

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オリンピックにおける卓球の流れ【日本の黄金時代は…】

1988年 オリンピック初出場

1988年のソウルオリンピックで、卓球がオリンピックの競技に加わります。近年のオリンピックとは違い、男女ともにシングルスとダブルスしかありませんでした。

日本は、本大会でオリンピックの卓球競技に初出場を果たします。残念ながらメダルに輝くことはありませんでした。ちなみに、男子シングルスの金メダルは韓国の選手。女子シングルスの金メダルは中国の選手でした。

ペンホルダーによるドライブ主戦型で黄金期だったのは、もう少し前。80年代後半からは、徐々にシェークハンド全盛期に入っていました。

 

2012年 ロンドンオリンピック

2012年のロンドンオリンピックで、日本が念願のメダルを獲得することになります。快挙を果たしたのは、女子団体。

石川佳純選手、福原愛選手、平野早矢香選手が女子団体に出場。見事銀メダルを獲得しました。

 

2016年 リオデジャネイロオリンピック

水谷隼が男子シングルスで初のメダル獲得

日本代表のエース・水谷隼選手が、男子シングルスで銅メダルを獲得します。中国選手の一角を切り崩してのメダリストとなりました。卓球日本男子シングルス初のメダル獲得となりました。

男子団体で銀メダル

日本の快挙は、男子シングルスだけではありません。水谷隼選手、吉村真晴選手、丹羽孝希選手の男子団体は銀メダルを獲得。日本卓球界を大きく躍進させました。

 

日本の黄金時代は、2020年東京オリンピックと重なるんじゃないか

日本卓球界の黄金時代は、1950年代だと言われています。60年代以降は、中国が急速に台頭してきて、日本の影は薄くなりました。

ですが、現在の日本卓球界の選手を見ていると黄金時代はこれからなんじゃないかと思わされます。男子のエース・水谷隼選手、女子のエース・石川佳純選手をはじめ、強い選手が育ってきています。

男子選手でとりわけ注目されているのは、世界卓球と全日本卓球選手権大会で水谷隼選手を破った張本智和選手。まだ15歳にも関わらず、世界ランク最高位8位を獲得しています(2018年時点)。

さらに、女子選手も平野美宇、伊藤美誠、早田ひなの三人をはじめとする黄金世代と呼ばれる若い選手が続々と出てきています。彼ら彼女らの全盛期は、まだまだこれからです。

この勢いでいけば、2020年東京オリンピックあたりに日本の黄金時代が訪れるのではないかと思います。この記事を書いているのが、2018年の年末。今から東京オリンピックの日本勢の活躍が楽しみです。

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